歴史から見た大谷石 | 大谷石の歴史と魅力 | NPO法人 大谷石研究会

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 大谷石は、宇都宮市大谷地域に分布する軽石質の凝灰角礫岩を主体とする火山砕屑岩の総称である。
新生代新第三期中新世、今から約1500万年前に火山から噴出した火山灰や軽石・岩片などが海底に堆積して出来たもので、緑色を呈することから緑色凝灰岩とも呼ばれている。軟らかく加工しやすい石材であるところから利用の歴史は古く、縄文時代には竪穴式住居の炉石として、古墳時代には横穴式石室の構築材として、また奈良時代には下野国分寺の基壇等に用いられた。
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 大谷石の生産利用が本格化するのは江戸時代になってからである。本多正純は、宇都宮城主在任期間中(1619~22)宇都宮城普請で大谷石を切出し利用したといわれる。
 江戸時代の大谷石切は、農間渡世として行われ、享保5年(1720)には、下荒針だけで49名が石切に従事した。この頃になると、大谷石の利用は石垣、墓石、石塔等と多様化するが、特に石蔵が目立つ。石蔵は当初板状の石を貼った貼石構造で、屋根も石瓦で葺く場合が多い。
 明治期以降、交通機関の発達により大谷石の輸送が飛躍的に増大し、生産・利用も盛んになった。石蔵は貼石構造から積石構造へ変化し、また、鉄道の発達に伴い駅構内のホームや橋梁に利用された。
大正12年(1923)の関東大震災の際に、大谷石造の旧帝国ホテルが焼け残ったことから大谷石は耐震・耐火性があると喧伝され利用に拍車がかかった。第二次世界大戦後、経済成長に伴い宅地造成、工業団地造成が盛んになると、大谷石が土止め用の石垣や石塀などに大量利用され、昭和30年代には年間80万トンもの生産量を超え大谷石生産の最盛期を迎えた。
 現在、大谷石生産は激減し、従来のような土木・建築材ばかりでなく室内装飾用、あるいはコースター、キャンドルランプ等新たな利用がなされ、また採掘跡地の一部は資料館や酒やハムなどの食糧貯蔵庫などにも利用されている。